善悪の基準
最近自分の課題って何かしら?と考える事がある。
自分に課題があるからこそ、今回生まれ変わってきているし、今の状況だと思う。
自分をもっと高めるには、素直に自分の課題を認め浄化する必要がある。
私の課題は、物事に関して正しいか正しくないかを必要以上に執着する事だと最近ようやく気がつき出したわ。
人を善人悪人とレッテルを張りすぎてきたように感じるわ。
私の傲慢さは、自分が正しい、相手が間違っていると思ってしまい、相手の話を聞かなくなってしまう事にあると思う。
それが私の主人や子供や愛する人たちだったら、必要以上にいらいらしてしまい、聞く耳を持たなくなってしまい、いかにして
相手を打ち負かしてしまおうかという、ある意味戦いになってしまう事がしばしあったっけ・・。
時に憎しみさえ覚えてしまう私・・。(トホホな私)
ある意味では、戦争すらも「正しさ」と「正しさ」の戦いだわ。
つまり2元的な考えだよね!善と悪 愛と憎しみ 生と死 楽と苦 天国と地獄etc・・。
人はみな自分と違うということに気がつくべきだわ。
みんなそれぞれの価値観や判断基準を持っているのよね。
私は、特に自分が愛する人たちにはどうしても一緒じゃないときがすまなかったわ。
可愛さあまって憎さ100倍って感じだった。
違いを違いとしてみるのではなく、大きな可能性としてみるべきよね〜。
相手を理解しようとする心が大事だよね!
正しいかではなく、つまりそこに愛があるかどうかだよね。
伊藤守さんの著書「こころの対話」に、「正しいことを言うのは、おやめ
なさい。」
「私達が人の話を聞けないのは、自分の正しさを証明するのに精い
っぱいだからです。」と書いてあったっけ。
私って自分を守るのに必死なんだ・・。
本質的な意味で自分に自信と余裕がないんだわ。(本当に自分にがっかり・・。)
自分に課題があるからこそ、今回生まれ変わってきているし、今の状況だと思う。
自分をもっと高めるには、素直に自分の課題を認め浄化する必要がある。
私の課題は、物事に関して正しいか正しくないかを必要以上に執着する事だと最近ようやく気がつき出したわ。
人を善人悪人とレッテルを張りすぎてきたように感じるわ。
私の傲慢さは、自分が正しい、相手が間違っていると思ってしまい、相手の話を聞かなくなってしまう事にあると思う。
それが私の主人や子供や愛する人たちだったら、必要以上にいらいらしてしまい、聞く耳を持たなくなってしまい、いかにして
相手を打ち負かしてしまおうかという、ある意味戦いになってしまう事がしばしあったっけ・・。
時に憎しみさえ覚えてしまう私・・。(トホホな私)
ある意味では、戦争すらも「正しさ」と「正しさ」の戦いだわ。
つまり2元的な考えだよね!善と悪 愛と憎しみ 生と死 楽と苦 天国と地獄etc・・。
人はみな自分と違うということに気がつくべきだわ。
みんなそれぞれの価値観や判断基準を持っているのよね。
私は、特に自分が愛する人たちにはどうしても一緒じゃないときがすまなかったわ。
可愛さあまって憎さ100倍って感じだった。
違いを違いとしてみるのではなく、大きな可能性としてみるべきよね〜。
相手を理解しようとする心が大事だよね!
正しいかではなく、つまりそこに愛があるかどうかだよね。
伊藤守さんの著書「こころの対話」に、「正しいことを言うのは、おやめ
なさい。」
「私達が人の話を聞けないのは、自分の正しさを証明するのに精い
っぱいだからです。」と書いてあったっけ。
私って自分を守るのに必死なんだ・・。
本質的な意味で自分に自信と余裕がないんだわ。(本当に自分にがっかり・・。)
違いと可能性
この地球上には、様々な思想、宗教、団体があります。
しかし根源は、同じ一つのところから出ています。
したがって、大きな1本の流れのみで、同一の流れの中の支流といった
程度のものです。あえて言えば、敵ではなく味方同士であり
その味方の中で、多少意見が食い違っているということです。
根本的なところでは、利害が一致しており、その中で多少食い
違ってるといった程度のものに過ぎないのです。
多くの人たちは、このことに気づいていません。位置づけや程度の差、
原因が本質のところに由来するものか、末梢的なところかを、見極めるこ
とができず、その点に、好結果をもたらせるはずが、もたらせぬまま終り
出会いの目的が正しく遂げられずじまいで終わります。それが不首尾と
いうカルマです。それを果たすために生まれ変わってきているといっても
過言ではありません。
違い自体が、妨げにならないのです。その違いの本質を上手く捉えられな
かったために、それをプラスに作用させられず、十分に生かしきることが
できぬままで、それが逆に妨げの要因として働き、結果成るものも
ならなくなってしまったという場合が殆どなのです。
違いを可能性として生かしきれたときに初めて、大きなカルマも浄化されます。
しかし根源は、同じ一つのところから出ています。
したがって、大きな1本の流れのみで、同一の流れの中の支流といった
程度のものです。あえて言えば、敵ではなく味方同士であり
その味方の中で、多少意見が食い違っているということです。
根本的なところでは、利害が一致しており、その中で多少食い
違ってるといった程度のものに過ぎないのです。
多くの人たちは、このことに気づいていません。位置づけや程度の差、
原因が本質のところに由来するものか、末梢的なところかを、見極めるこ
とができず、その点に、好結果をもたらせるはずが、もたらせぬまま終り
出会いの目的が正しく遂げられずじまいで終わります。それが不首尾と
いうカルマです。それを果たすために生まれ変わってきているといっても
過言ではありません。
違い自体が、妨げにならないのです。その違いの本質を上手く捉えられな
かったために、それをプラスに作用させられず、十分に生かしきることが
できぬままで、それが逆に妨げの要因として働き、結果成るものも
ならなくなってしまったという場合が殆どなのです。
違いを可能性として生かしきれたときに初めて、大きなカルマも浄化されます。
自分であること
生きていく中で、一番大事なことはり、「今、我、ここに在り。」です。ここに私が、今この瞬間、存在してるということです。
最近、みんなで仲良く、感謝、共存共生等と言う言葉をちまたで聞きますが、その言葉は、とても美しく聞こえます。まるで自分自身がとてつもなく善人になったかのように・・。
本当に貴方が、救わないといけないのは自分自身なのです。自分自身を救済できたときに初めて、他人に救いが及び、真にその人のためになります。
必要以上に、善人になる必要はありません。貴方は貴方でいいのです。
貴方の闇にこそ、神の栄光があるのです。
最近、みんなで仲良く、感謝、共存共生等と言う言葉をちまたで聞きますが、その言葉は、とても美しく聞こえます。まるで自分自身がとてつもなく善人になったかのように・・。
本当に貴方が、救わないといけないのは自分自身なのです。自分自身を救済できたときに初めて、他人に救いが及び、真にその人のためになります。
必要以上に、善人になる必要はありません。貴方は貴方でいいのです。
貴方の闇にこそ、神の栄光があるのです。
開運法
幸運になるには、一番大事なことは、自分になることです。
とてもシンプルで単純です。自分の言い分を聞いてあげることです。では自分の言い分とは、自分の望みを聞いてあげることです。そして、自分の影の部分を認め許し、癒すことです。必要以上に、いい子ちゃんになる必要なないのです。まず、自分あり気なのです。自分が一体この世の中で何を望んでいるか、強烈に思うことです。人に対しての歩みよりは必要ですが、必要以上の迎合は、その人のパワーをおとしめ、イキイキワクワクがなくなってしまいます。
仕事が遊び、遊びが仕事にしてください。もちろん深遠なる意味です。
そして毎日、一番望んでいることを、意識付けしてください。そのうちに、その望みが無意識の中に入り込みます。そうなったときに初めて、実現化の兆しが出てきます。唯一つ気をつけないといけないのは、幸せを望みながらも、よく見るとその人は不幸を選択してる人が余りにも多すぎます。
自分は自分であっていいのです。多くの人は、幸せになるために、頭で考えすぎます。必要以上の知識を詰め込みすぎます。知識では、人を打ち負かしても、何も周りは変わりません。
それより毎日の平凡な生活の中に、幸せを見出してください。幸せとは、外に求めるより、幸せを感じる心が大事です。
真の幸せは、とてもシンプルです。よく目を凝らしてみないと、通り過ぎてしまいます。
とてもシンプルで単純です。自分の言い分を聞いてあげることです。では自分の言い分とは、自分の望みを聞いてあげることです。そして、自分の影の部分を認め許し、癒すことです。必要以上に、いい子ちゃんになる必要なないのです。まず、自分あり気なのです。自分が一体この世の中で何を望んでいるか、強烈に思うことです。人に対しての歩みよりは必要ですが、必要以上の迎合は、その人のパワーをおとしめ、イキイキワクワクがなくなってしまいます。
仕事が遊び、遊びが仕事にしてください。もちろん深遠なる意味です。
そして毎日、一番望んでいることを、意識付けしてください。そのうちに、その望みが無意識の中に入り込みます。そうなったときに初めて、実現化の兆しが出てきます。唯一つ気をつけないといけないのは、幸せを望みながらも、よく見るとその人は不幸を選択してる人が余りにも多すぎます。
自分は自分であっていいのです。多くの人は、幸せになるために、頭で考えすぎます。必要以上の知識を詰め込みすぎます。知識では、人を打ち負かしても、何も周りは変わりません。
それより毎日の平凡な生活の中に、幸せを見出してください。幸せとは、外に求めるより、幸せを感じる心が大事です。
真の幸せは、とてもシンプルです。よく目を凝らしてみないと、通り過ぎてしまいます。
一神教と多神教
真実は、一つで一貫しています。
しかし、真実の中道は、常に動いています。その一つは、いつも同じという意味ではありません。根底に流れる精神が一つと
いう意味であり、現れ方は多種多様です。
だからこそ、個性が尊ばれ、生かされるからです。
だからこそ何十年も生きて、兼ね合いをつかみ,如何なる状況でも自在力、応用力がつき、人生を賢くいききることができるようになります。
結局、一神教と多神教の関係も一緒です。一神教という基本原理を中心に、それが、この地球上で、色々な時代、場所、環境によって、多様に表現された結果が、多神教になったに過ぎないのです。1人の神が、多様に現れたの過ぎないのです。しかし、現れ出てきたところだけを捉えると、多神教になって、そのこだわりが偶像崇拝化させて、真理を固着させ、命を途絶えさせ、パワーをおとしめ、そこで死の恐怖と結びつくのです。その囚われが生命を滞らせるのです。
しかし、真実の中道は、常に動いています。その一つは、いつも同じという意味ではありません。根底に流れる精神が一つと
いう意味であり、現れ方は多種多様です。
だからこそ、個性が尊ばれ、生かされるからです。
だからこそ何十年も生きて、兼ね合いをつかみ,如何なる状況でも自在力、応用力がつき、人生を賢くいききることができるようになります。
結局、一神教と多神教の関係も一緒です。一神教という基本原理を中心に、それが、この地球上で、色々な時代、場所、環境によって、多様に表現された結果が、多神教になったに過ぎないのです。1人の神が、多様に現れたの過ぎないのです。しかし、現れ出てきたところだけを捉えると、多神教になって、そのこだわりが偶像崇拝化させて、真理を固着させ、命を途絶えさせ、パワーをおとしめ、そこで死の恐怖と結びつくのです。その囚われが生命を滞らせるのです。




